『BUTTER』
1年間の連載で、東京メトロのフリーペーパー「メトロポリターナ」にエッセイを寄稿している。ロート製薬がフェムケアに力を入れていることを多くの人に伝えたい、けれどそれはさりげないトーンで構わない、という方向性から生まれたページだ(ロート製薬は本当にすごいです、オバジもエピステームもロート製薬ですよ)。女性として生きることを軸に置きながら、テーマの設定は割と自由。とはいえ女性が悩むとき、ふっと楽になれるような空気があるといいなと思った。
私は物心ついたときから女性が好きだ。男性にあまり興味がなかった、というより男性がずっと怖かった(息子がいる今はそんなこともないが)。憧れの対象は女性が圧倒的に多く、女性が歌う曲、女性が描く漫画を好んだ。それは自分もそうなりたいというワナビー気質によるものとも言えるし、純粋に興味の対象が女性であるとも言え、その境界線すらもはやよくわからない。しかし同時に性別を感じさせないものが好きという感覚もあった。「女性らしさ」という言葉には興味がもてない、そんな感じ。
『BUTTER』を読んだ。
なんとなく滲む「女性らしさ」というテーマに、最初は少し戸惑いのようなものを感じた。とにかくハイカロリーな小説で、読み進めるのが大変。つまらないわけではなくてむしろその逆、そして難解で高度な読解力が必要とかでもないのだが、なんか険しいのだ、道が。スケートリンクをすいすい滑るように読める『イン・ザ・メガチャーチ』に比べると、密度の高いあつあつの巨大釜飯にハマりながらそれでも前に進んでいくような困難さがあった。500ページを超える作品だが、その密度はエンディングまで続く。
「女性であることの困難さ」がしばしば描かれているからといって、ついついそういう話だと先入観を持って読んでしまっていた自分に反省した。実際はかなり色々な見え方がある多面的な作品だったのだ。私にとっては、文中によく出てくる「適量」の話、そして「それでも生きる、道を切り開く」という姿勢の話であり、忘れられない大切な作品となった。
そうじゃないけど女である、という生き方があってもいいのではないか。そうじゃないけど女だし、そうである女の人にコミットしてもいいのではないか。色々な味が混ざり合う世の中でいいのではないか。
昨日友人が「私は必死に頑張って生きている感覚を持っていない。たくさん努力して上昇していく生き方があることも知っているけれど、それをすごいと祭り上げることもない。そういう人もそうじゃない人もいるというだけだなぁ。私にはこの生き方が心地いいから、こうやって生きている」と言っていた。
七面鳥とマンションに向かうシーンからは、ぼろぼろ涙を流しながら読んだ。泣きすぎて眼球の痛さが麻痺してしまうほどであった。