ライターと編集者

つくづく私は編集者ではなくライターであるなと思う。
編集とライターは一緒にされがちである。というより、編集ができるならライティングもできて当然、という空気があるし、もちろんどちらもできる素敵な人はたくさんいる。けれどもそこがシームレスという前提を当たり前のように思われてしまうと困るというか、レストランの経営と料理人の両方ができるくらい、両方できる人っていうのはすごい。

編集者とは何か?個人的には「場を用意する人」がしっくりくる。遊び場を作る人。お膳立てをする人。昔尊敬する編集者の友人が「編集っていうのは、カメラマンにはいいですね〜その写真最高!って感嘆して、スタイリストやモデルやヘアメイクになんて素敵!って感嘆して、スタッフにお茶出して褒めて褒めて褒めまくって、最後にタイトルをつける人のこと」みたいなこと言ってたけど本当にそうだと思う。

ライターは用意された場所で遊ぶ側だ。要するにプレイヤーであり、何を求められているかを考えながら技を繰り出す感じがとても精神的にラクである。要するに期待に応える仕事であると思う。期待に応えるという図式は、そもそもそこに期待があって初めて成立する状況であり、私は誰からも期待されなかった幼少期を過ごしそこに不幸を感じていたため、期待がそこにあるということに非常にありがたみを感じる。

そしてその期待は、編集者から発されるものだと私は思っている。何もないところから価値を作り上げる、風を起こすのが編集者であって、私にはそんなすごいことはできない。風を利用して水車を回すのが性に合っている。

ベストセラー

とても好きで、大好きで、心を何度も揺さぶられた人のあたらしい本。
本でなくてもいい。音楽でもなんでも。
しかもその新作が、世間で高評価を得ているとき。

いざ、触れてみて、あんまり好きじゃないかも?と冷静になってしまうことがある。
そんな自分に、これまでも何度か出会ってきた。

最初、私がおかしいのかなと思う。疲れてるのかなとか、認めたくないほど素晴らしいからなのかな(要するに嫉妬)とか、感情の裏にある「本当のひっかかり」を探そうと努力してみる。私のほうが先に好きになったのに、世間は今更高評価してきてなんなの?みたいな感情なのかな、みたいなことも考える。喉にひっかかっている魚の小骨を探すみたいに、少しだけ丹念に。

でも、骨は見当たらない。
見当たったらどんなにかすっきりする。
でも、見当たらない。

そういうときは、とにかくとても悲しい。喪失感でいっぱいになる。きっと過去に好きだという気持ちをくれたものに対して、そうではない気持ちを抱くことが悲しいから。その人だけでなく、過去の自分にも、背中を向けてしまう行為のような気がしてしまうから。

だけど私の今の気持ちは残念ながら真実で、
その気持ちを胸に、私は私の人生を前に進むしかない。

ひとつ思うのは、何かを苦手とか嫌いとか思ったり、非難したりする場合は、自分の中にもかなり似たような要素がある。しかも本人はそれを絶対に認めたくない。本当にそういうケースが多い。

私は私の人生を前に進むしかない。

『バービー』

映画『バービー』を観てきて、あまりにも良かったので記録しておこうと思う。SNSに上がっていたレビューではフェミニズムとかエンパワメントの文脈のものが多かったように記憶しているが(事前情報なしで観たいため、読まないようにしてたから詳しくはわかりませんが)、そういった印象はそこまで受けず。観る人によって色々なものを受けとる映画なのかな、とも感じた。

そもそもなぜこの映画を観ようと思ったのかというと、私は文章講座EMOTIONAL WRITING METHODのカリキュラムのなかでバービーを扱っている(勝手に)。だから観ておかなければならないだろうなという半ば義務感のようなものがあった。「バービーがバービーの世界から人間の世界に降り立ってしまう」ということだけ、情報として仕入れている状態で観た。

結果、しつこいけれどもとんでもなく良かった。いくつかのポイントにわけて感想をまとめてみる。

[バービーというモチーフがよく活かされている]
映画はバービーランド(バービーたちが生きる世界)のエピソードで幕を開けるが、バービーのミニチュアな世界が人間サイズに巨大化されており、そのプラスティック感をアナログに描き切るところが実によくできていた(ちょっとミシェル・ゴンドリーを彷彿とさせる)。人形遊びで登場するあらゆる不自然さ(たとえば人形の移動のさせ方や、飲食の仕方など)がうまく盛り込まれて、変に作り込まれていないところにときめいた。

最初にその描写があるので、人間や人間界のリアルさとの対比や、次第に「完璧な存在でいられなくなった」バービーやケンが持つ「かげり」のようなものとの対比がめちゃくちゃ活きていく。マーゴット・ロビー演じるバービーと、ライアン・ゴズリングのケンは特に素晴らしかった。

またバービーの製造元であるマテル社がこの映画の制作に関わっているようだったが、マテル社が持つ理念やバービー開発への想い、歴史などが映画のなかで重要なエッセンスとなる。特にマテル社の理念と社会での受け入れられ方にギャップがあることがアイロニカルに描かれており、非常に見事だった。日本でやるなら、ここまでスポンサーを思い切り滑稽に描くことは難しい気がする。もっと羞恥心やプライドや忖度で変になりそう。

[完璧な世界の異常性]
冒頭で登場するバービーランドは、そのほとんどが多様性にあふれるバービーで構成されており、イニシアチブを女性たちが取っている。後半では反対の概念がバービーランドを支配することになるのだが、そのどちらにもしっかりと異常性が描かれていた(正直、そのふたつの世界には大した違いはない)。

たとえば「大統領も、医者も、ノーベル賞を取るのもバービー」で、それは女性の自立や発展を意図して作られたコンセプトなのだが、実際はすっかり完成された世界が空虚にそこにあるだけであり、バービーは変化を嫌う。だって今が完璧なのだから、変わる必要なんてないでしょう?と。多様性とは、自立とは、一体何か?考えさせられる。

最初の展開でマーゴット・ロビーが涙を流すシーンがあり、この涙が「完成されているバービーランド」に対するアンチテーゼの出発点となる。それがバービーの中から湧き出てくるものであるというところが非常にいい。

[人間の役割と人形の役割]
結局のところ、人形(バービー)は人間が作ったものであり、人間が成長したり変化していくときの支えになるものなのだ。人形は基本的に老いない、死なない存在であり(古びることはあるけれど)、自らの意思で動くことはない。人形の動きはすべて人間の想いという原動力によって生まれている。けれどそこに命を吹き込み、自我を持たせるという演出が本当によかった。人間たちのヘンテコな習性や愚かさ、未熟さ、そして何より「変化せずにはいられない」という宿命を、人形という存在を置くことでキッチュに描くことに成功していると思った。

私たちは、それぞれ自分自身である。自分らしく生きていい。肩書きとか、与えられた役割とか、所有物とか、そういったものに左右されなくていい。そんな耳障りのいい、聞き飽きたような文句も、人形の口から発せられると途端に鮮やかな意味合いを帯びる。

説教なんて聞きたくない。これは人間が持つひとつの心情ではないかと思う。ともすればそうなりやすいメッセージも、バービーの世界という前提があると、ここまで豊かに、ユーモアたっぷりに、描くことができるんだと感動してしまった。悪者はひとりも出てこない。みんな何かの被害者で加害者で、少しだけ愚かで、でも何かを残したい、紡ぎたい、きらめきたいと考えている。そういったことをさわやかに描き切っている作品だと思った。

風刺の小ネタも多く、男性社会の描き方などはちょっと過剰では?とも思ったけど、別に過剰とかそういうことではないのかもしれない。笑いあり、失笑あり、涙ありの素晴らしい映画だった。

人間讃歌なので、性別がなんであれ、ぜひ観てほしいと思う。この映画をカップルで鑑賞すると別れる可能性がある、みたいな話をどっかで読んだが、これで別れるくらいなら『バービー』を観なくてもいつか別れるだろって感じです。対立を煽るような映画ではないと思うし、男性のものとして描かれているエトセトラは、男性にだけ当てはまるようなものではない。人間全般に当てはまるものだと思う。

「美容欲」

2021年の秋に、『「美しい」のものさし』というエッセイ本を出させていただいた。その企画段階だったか、それよりももっと前だったか。こんな本を出したいと思って書いたメモが出てきた。

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「美容欲」
美しくありたい、美しくなりたいというのが美容欲。美容欲はほとんど誰もが持っている欲望だと思う。これは、あなたにとっての理想とは?という話であり、造形とかファッションとかコスメの話にとどまらない。化粧をしないという選択もひとつの化粧だと思う。約束を守ること、好きな人を大切にすることだって美容だと思う。なりたい自分を目指すこと。それが美容欲。
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私が思っていることは、たぶんずっと変わらない。そして全然派手じゃない。だけど誰かにとってのささやかな、公園のような、湖のような、峠の茶屋のような、猫とのアイコンタクトのような、そんなささやかな何かになったら本当にうれしい。

aespa大好きおばさん

8月6日、日曜日。
aespaの東京ドーム公演『aespa LIVE TOUR 2023 ‘SYNK : HYPER LINE’ in JAPAN』へ。

私のaespa熱が最高潮だったのは去年4月のコーチェラ出演のあたりではないかと思う。その後日本でショーケースが行われ、とっても行きたかったがチケットは取れなかった。そして8月下旬のSMTOWN LIVE 2022 : SMCU EXPRESS@TOKYOで初めてaespaを見たけれど、正直タージマハルの現物を目にしたときと同じというか、画面で見てるaespaがそこに居るだけって印象でそこまでの感動はなかった。私はaespaの制作物が大好きで、リリースされると基本的に全形態購入してるのだけど、7月に出た2ndミニアルバム『Girls』も、主にビジュアルにおける世界観としてそこまで大きな変化がなく、なんか色々aespa熱が失速してしまったのを覚えている。

ただ今年5月に出た3rdの『MY WORLD』はすごく良かった(制作物として)。K-POPの世界に触れて3年も経つと、だいたい打ち出し方の流行や手数などが把握できるようになってきてしまっているのだけど、aespaらしさを確実に進化させて「aespaっていつもこうだよね」って感じでもなく「aespaがこんなことをやるなんて意外すぎる」って感じでもなく……とにかくaespaにしかできない新しい何か、という感じだった。

だから今回のドームも、チケット取るほどではなかったんだけど友人が誘ってくれて、それなら行こうかな、新譜も良かったしという感じで。ただ3年目、何がなんでもK-POPを生活のなかで優先するという感じでもなくなり、息子や猫のことも色々あり、ENHYPENのカムバもあり等々、熱量が分散されていてそこまで予習することもなく、かろうじてペンラだけ買って行きました。

いや〜最高でしたね。aespa最高!!!!!
見事にaespa大好きおばさんとなって帰還しました。おばさんというのは「aespaの良さについて語りたがるめんどくさい人」の意味で使ってまして、本当はおじさんと書きたい感じなんですがまあ私はおじさんではなくおばさんなので。性別的に。

なんだろう、まず曲が良い。そこまで聴き込んでいなかった自分を反省。なんだけど、音源より圧倒的にライブのほうが曲がよかった。アレンジや構成がちょっと変わっていて、すごくライブ向きになってると申しますか。要所要所にハードロックのニュアンスが入ってるんだけど、それがキッチュでaespaに超合ってる。

正直、東京ドームという広い会場をあの細っこい4人の女の子がどう「持たせる」のか?というのが謎だったのですがまったく心配いらなかった。ド派手というわけでもなく、でも映像の使い方やムービングステージの動かし方が素晴らしく、会場がジュリアナ東京みたいになってたと申しますか。観客も男性が多くて(半々は言い過ぎだけどかなりいた)彼らが腹から声を出しているため歓声もものすごく、掛け声もサークルの飲み会とかホストクラブみたいな雰囲気というか。どっちも行ったことないですけど。

何よりaespaのすごいところは、「うまい」「ヘタ」の領域にいないということだなと思った。ダンスがめちゃくちゃ揃ってる群舞みたいな技巧的タイプでも、パワーで圧倒するタイプでもなく、かといってプロデューサーのお人形的なプラスティックアイドルという感じでもなく、一生懸命だけどどこか飄々としていて、4人のキャラも立っていて、本当に感動してしまった。全員スキルがあるのはもちろんのことね。

私は「切なさ」という世界観に弱いんだけど、aespaにはどこか切なさや儚さがある。メロディもそうだし、彼女たちの存在自体にも。それが強烈なねじれのようなものと共にあり、aespaの世界を強力に補完していると感じた。正直アバターやブラックマンバ、KWANGYA、ナビスなどaespaを構築するストーリーはなにひとつ理解していないんだけど、初期はなんとなくキワモノ感のあったそれらの空気も、普通になじんでそこにあるというか、たいしたことじゃないんで、みたいな感じというか。

ずっと内永さんが推しだと思ってたのだけど、今回の公演でカリナがめちゃくちゃ好きになってしまった。ちょっとテヨン(NCT)を好きな感じと似ていて、夢中になるっていうよりリスペクトの念が強い好き。この世界観、このメンバーたちと作り上げるaespaワールドをまとめる、最も常識人という感じがあった。

時代なのか、K-POP独特のものなのか、あるいはその両方なのかもしれないけど、何かを好きと表明する際に、そのリテラシーやモラル、哲学、そんなようなものが問われる機会が多いと勝手に思っており、でもaespaってそういう世界からも遠く離れている感じがあり、もうなんか本当に安心して好きでいられるグループだなと。本当に行けてよかったし、誘ってくれた友人に心から感謝したい。

猫の発熱

結局理由はなんだかわからなかった。猫のシー(SEA)が40度越えの熱を出した。生まれてはじめてのことだと思う。たぶん。たぶんというのは、生後3ヶ月のとき我が家にやってきた保護猫だからだ。それ以前のことはわからない。出自も知らない。

出会った当初はとても警戒心が強く、心を許して触らせてもらえるまで半年はかかったと記憶している。ずっと誰も触れないソファの裏地の洞穴みたいなところに潜っていて姿を見せず、食事はみんなが寝静まったときに食べていた。今はすっかり慣れ、犬なのかな?というほどに鳴いて私のあとをついてくる。呼びかければ必ず3倍くらいの熱量で返事をするし(ちなみに、呼んでなくても返事をする)、隙あらば膝に乗ってきてだっこや撫でることや遊びやおやつを強要してくるし、指や顔をべろべろと舐めてくる。とにかく全てのことを中断してこっちを見ろという圧がすごい。

猫と暮らす多くの人は、猫第一、猫優先の価値観を持っているように思う。猫を崇めて人間がそれに従うような感じというのでしょうか。私にそういった感覚はあまりない。むしろシーを鬱陶しく感じてしまうことも多々あり、どちらかというとぞんざいに扱っている怒られが発生する系の飼い主だと思う。シーの圧がすごくて面倒だからかなとも思ったが(だって猫って「気まぐれさ」や「気高さ」「なびかなさ」みたいなものを持っているイメージだけど、シーは全然違うし……)思えば私は息子に対しても似たような態度であり、目に入れても痛くないほど可愛いなどと思ったことはない。私の問題ですねこれは。

ともあれ、とても暑い先日のある日、床にじっ……と香箱座りして不機嫌な置物みたいになっていた。毛並みが悪い。いつもはそばに行くと全身をすごい圧で擦り合わせてくるのに、動かない。こちらを見ない。吐く息が熱い。これは……と思って病院に連れて行った。水分の点滴、抗生剤、胃薬の注射のフルセットを3日間続けて、回復した。と思ったらまたその2日後にダウン。同様の処置を行なって、熱は下がったのだが元気がない。ご飯を食べない。じっ……が続く。

血液検査とレントゲン、どちらにも異常は見られなかった。発熱も、熱が下がってからの普段と違う様子も、何によるものなのかがわからないまま、不機嫌な置物を前に途方に暮れていたら、友人の猫博士に「病院がストレスなのでは?」と連絡をもらった。

確かに病院が本当に嫌いだし(そもそもシーはその病院から保護猫として譲り受けたのだが、なぜ?故郷ではないか)、レントゲンのときはお漏らしをしてしまい、お医者さんに「本当に臆病な子ですね」と言われていた。ここ1週間毎日のように行っていて、それが大きな心理的負担になってるのかも?

「そもそも猫って2〜3日くらいは何も食べなくても大丈夫にできてますよ。野良はみんなそういう生活してるわけですし」と言われ、食べないからと点滴を打つより、病院に連れて行かずそっとしておくのがいいのかもしれない、と思った。

病院をお休みして、結果としてシーはとても元気になった。最初は鰹節を少しだけ、ちゅーるを少しだけ、くらいしか食べず、多少弱々しかったが、今は完全復活。鳴き声もうるさいし隙あらば膝に乗るようになった。後半の食事をしない姿勢は、病院に連れていくなというストライキだったのかもしれない。

ところで、何をしても元気がないとき、そして原因がわからないとき、このままずっとこうだったらどうしようという強い不安でいっぱいになり、シーに対してもっと何かできることがあるはずなのに、どうして私はこうなのかと自分が嫌になってしまう。

きっと、あまりにもありふれたエピソードだとは思うのだけど。元気なときは、ひとりにして欲しいとか静かにして欲しいとか鬱陶しく感じるのに、元気がなくなるとこうなってしまう。こうなってしまう、ことのほうに真実がある。生きているだけで奇跡、みたいな、本当にありふれた真実。

渦中にいるとき。不安、自責、悲しみ、後悔、恐れ、そんなようなものが自分自身を支配しているとき、その感情というか感覚というか、の力はとてもとても強力だ。今回シーの心配をしているとき、私はそれらの暗雲に支配されながら、頭の片隅でそう思っていた。「これ以外考えられない」と。

しかしいざシーが元気になると、あのときの、渦中にあったネガティブな確信のようなもの(もはや正確に書き記すこともままならない)の記憶が驚くべきスピードで薄れていく。自分が愚かであるという事実だけが、そこにトドのように横たわっている。

今回は猫の不調と息子の体調不良、そして息子の学校の夏休み課題であるほうせんかの鉢をダメにしてしまったことが重なり、ほとほと自分に嫌気がさしてしまった。自責の念が肥大化したところで状況は何も変わらないから、どう前に進むかを考えなければならないのだけど、その仕切りをすべて自分でやらないといけないのがつらい。47歳にもなって何を言ってるんだという話ですが。

しかし原因がわからない不調がシーは本当に多い。シーが病弱ということではないんだけど、何かしら弱ったり不具合があるとき、これというすっきりとした理由がわかった試しはこれまで一度もない。それは致命的な疾患ではないからなのだと考えることもできるけど、シーと会話ができたらどんなにか楽なのになぁ。向こうもきっと私に対する疑問や意見が色々とあるだろうに。

ゴーストライター

昔は「ゴーストライター」って単語にネガティブなイメージを持っていた。影武者というか、暗躍する人というか。ゴーストライターを使うってことは後ろめたいことで、それがバレるとあなたには文才がないですねってことを証明することになるのでは?みたいに思っていた。

今はそうは思わない。まあ、暗躍する人というのは当たっているが。

ライターという職業についてから思うのは、私の仕事ってほぼゴーストライターじゃんということである。ブランドコンセプトコピーを書く。取材してインタビュー記事を書く。新商品の特徴をまとめる。著者:AYANAとなっている以外のあらゆるものは、私がゴーストライターとして書いたものだと言っていい。

私は誰かの気持ちを翻訳して言語化したいという気持ちが強い。「こういうことが言いたかったんです」「私の言葉を美しくまとめてくれてありがとう」などの反応をもらえると、本当にうれしい。それってゴーストライターということなんじゃないか?そこに私の存在はあってもなくても別にいい。ただ、主人公となる人の気持ちがしかるべき誰かに届いたら、それがとてもうれしいのだ。

以前、知人がウェブにアップされた自分自身のインタビュー記事について「私はこんなこと言ってないのに勝手に書かれている」と怒っているのを見たことがある(ネット上で)。ライターに(なのか編集部になのかわからないけど)情報操作されている、というわけですね。校正しなかったの?って話なんだけど、こうなってしまうと悲劇である。

高校生のとき読んでいた音楽雑誌で、イギリスかどっかのアーティストだったと思うが「日本のメディアは言ったことをちゃんとそのまま記事にしてくれるから好き。自国のメディアはあることないこと書くから嫌い」的なことを言っていた(のを日本のメディアが書いていた)。当時は「その人が言ったことだけをそのまま忠実に言語化するのが正解なんだ」とうすぼんやり思っていたが、今ならわかる。そういうことではない。

「そういうことが言いたかった」あるいは「そういうことを私は言ったのだ」という内容が、理想的な(意外性のあるものも含む)形でそこにあれば、きっと誰も文句は言わない。そして私のようなライターはそこを目指すべきなのだろうと強く思う。

いつかラブレターの代筆なんかもしてみたい。映画『Her』にあったよね。

『怪物』

映画『怪物』をようやく観た。
監督が是枝裕和さんで脚本が坂元裕二さんであるということくらいしか事前情報を入れずに観たのですが、クィア・パルム賞なるものを受賞しているんですね。

私はクィア当事者としての苦悩を背負っているわけではない。そしてシングルマザーである。この2点が強く関係しているからだと思うけれど、個人的には「クィアを題材とした映画」という印象は受けなかった。そして是枝さんも坂元さんも男性だなぁという感想を抱いた。男性はやさしい。そしてロマンチストだ。これは私が男児の母親という視点に立ってしみじみと実感していることである。

是枝監督の作品をすべて観ているわけではないけれど、私のなかでは「置いて行かれた側がどう生きるか」みたいな視点、そして「家族」というモチーフにこだわりが強い人という印象がある。今回はひとつの家族にフォーカスした作品という感じではなかったけれど、それでも是枝監督の映画だなぁ、としみじみするには十分な内容だった。

人間が持つ特有の気持ち悪さや弱さ、事前情報や視点、立場によって同じ事象でも簡単に見え方が変わってしまう儚さ、大切なものを守りたい気持ち、そんなものに思いを馳せる映画だった。「男らしさ」「普通の幸せ」「片親家庭」「いじめの隠蔽」などのあからさまな描写はあるものの、なんとなくそこは坂元さんだしなと思ったりもした。そうだね。そうかな?そうだね。みたいな。

是枝監督の映画に出てくる子どもたちは、みんなどこか似たような目をしている。なんとなく、大人がごめんねと懺悔したくなってしまうような目をしていると思う。私ももう、そのごめんねを言う側に来てしまった。

学校を休んだ日

小学校3年生の7月、今日。息子がはじめて学校を休んだ。朝起きて耳が痛いということで耳鼻科に行った。急性中耳炎で左耳が真っ赤に腫れていた。息子は乳幼児の頃からずっと中耳炎に悩まされている。右耳が滲出性中耳炎で3歳から2週間おきに耳鼻科に通っており、過去に鼓膜の切開もしている。滲出性が発覚したのは3歳で、それまでも何度か急性中耳炎で熱を出したことがある。抱っこ紐で救急にかかったこともあり、抗生物質をもらって熱と腫れが引いたら治ったと思い込んでいたけれど、すでにその頃から滲出性中耳炎を抱えていたのかもしれない。

息子の場合、滲出性のほうは腫れや痛みなどがあるわけではなく、水が溜まって聞こえが悪い状態が続いているだけで、本人的には不快ではないようなのだ。右耳だけが中耳炎なので、右と左を比べると明らかに右の聞こえが悪いのだが(測定などをすると明らかなデータが出るのだが)、本人はもうそれが普通の状態だからなのか、違和感はないという。左は普通に聞こえるため、またおそらく息子の聴力はどちらかというと敏感なため、日常生活において、呼ばれても振り向かないとか、授業の声が聞こえないとかいった不具合もない。そんなわけで私も普段は定期的に耳鼻科に通うことだけを忘れないようにしている。成長とともに治ることがほとんどだというお医者さんの言葉を信じて。

息子は鼻炎持ちで、かつ子どもは鼻から耳への距離が近いため中耳炎になりやすい。鼻炎状態とその距離感に変化がない限り、彼の滲出性中耳炎は続くのだろう。鼻炎も少しずつ良くなっているような気がするようなしないようなそうでないようなという感じで、一喜一憂しながらもう5年も経ってしまった。

定期的に耳鼻科に行っていることもあり、突発性中耳炎になることはほぼなくなったが、去年に1回、そして今日で1回。前回は耳に違和感があるということで、学校が休みの日だったため耳鼻科で抗生物質をもらい、痛がることもなく完治したが、今回はとにかく痛がってヒヤヒヤした。幸い熱はでておらず、明日は登校できそうだ。

なぜこのような状況整理の文言をここに書き記すのか自分でもわからないのだけど。息子のこともどこまで書いていいんでしょうねぇ。こういうのも個人情報と言えるし、未来の息子に怒られる日が来るのだろうか。

自分の親がSNSとかブログとか、なんでもいいんですけどネット上に言葉を綴る行為をしていて、たとえばTwitterを10年以上やっていて、日々思ったことなんかをあーだこーだ書いてることを、もし自分が子どもの立場で知ることとなったらどう感じるだろうかと最近よく考える。とりあえず私なら絶対過去ログを全部読むと思うし、親のリテラシーの低さに幻滅するかもしれない。息子に幻滅されることは怖くないけど(私自身も幻滅しているので同意できる)、息子に幻滅されるような文をネット上に放り投げているデリカシーのなさというのは、ちょっといただけないよなと我ながら思う。

この問題に対する明確な答えはまだ出ていない。なんだか話がそれてしまったが、これまでコロナもすり抜け風邪もすり抜けて登校してきた息子が、今日はじめて学校を休んだという記録をここに残しておく。

片方から聞いた話

同じ事象を前にしても受け取り方は人により実にさまざま。
同じ人であっても、時期によって変わるほどだ。
人の認知力はあまりに頼りない。

ちょっとしたボタンのかけ違い、バイオリズムの相性、
引っ込みがつかなくなってしまった状況、
色々な要因で関係性に亀裂が入ることがある。
あんなに仲がよかったはずなのに……と周りが思うほどの
展開を迎えることだってある。

さらに人は、自分が好きなものを信じたいし、
自分自身を守りたいと思うものなのだろう。
それゆえにかかってしまうバイアスの存在には、いきなり鈍感になってしまう。

何も珍しいことではない、と思う。

今はそこに何が表現されているかより、それを誰が表現しているかという点に
スポットが当たりやすい時代。
同じことを言っても、賞賛される人と軽蔑される人がいる(本当に)。
よく考えたらおかしな話なのだが、そんな事例はそこかしこにある。

だからこそ片方から聞いた話を信じすぎないようにしたい。
あなたのことは信じているけど、あなたじゃない人のことも信じている。
誰より自分自身に対してそういう気持ちでいたい。

『だが、情熱はある』

終わってしまった。日テレ日曜ドラマ『だが、情熱はある』。キンプリの髙橋海人さん主演かつラブストーリーではなさそう(ラブストーリーというものに興味が薄いため)という理由だけで観はじめた。

私はお笑いについてほとんど何も知らない。芸人も知らない。南海キャンディーズもオードリーも何も知らない状態で観はじめた。だからドラマ開始後とにかく話題になっていた「本人にそっくりである」という反応については何も共感できなかった。もとの人の芸風を知らないから。ちなみに正直最終回を迎えた今でも、お笑いというものについて惹かれる感覚は殆どない。

けれど本当に本当にいいドラマだった。なにもかっこよくないところがとってもかっこいいドラマだった。K-POPのコンテンツを見始めて3年ほど?日本らしさというものについて考えることが増えたけど、日本らしい何かがとても詰まったドラマだった。かっこつける。照れやプライドで素直になれない。どうせ自分なんてっていう感覚。それでもやるんだよ!という、実話であるからこそのかっこいいストーリー運びにはならないかっこよさのようなものを毎回ありがたく受け取っていた。K-POPはとっても完成されている世界で、ダメなところは見せないから。

主演のふたりはもちろん、脇を固める俳優陣が誰もかれも素晴らしかった。実在する人を演じるってどんな気持ちなのだろう。最終回は特に、ドラマ開始直前直後のエピソードも盛り込まれていて、とてもライブ感があった。いい話で終わらせないひねった感じに、気楽なユーモアを感じた。

このドラマのタイトルを『だが、情熱はある』にしたっていうのがいいよね。たりないふたりではなくて。

老けてるけどかっこいいのがいい

よくTwitterに書き殴っているけど、美しく歳を重ねるということの意味について考える(定期的に)。ちなみに外見の話。

30代の頃、加齢に抗いたくないよね〜とか思っていたし豪語もしていた。よく憶えている。その割に、加齢が何かということについての解像度は非常に荒かったと言わざるを得ない。その立場に立ってみないとわからないことが山ほどある。これは何に対しても言えることですが。

すごく不思議なんだけど、ある程度加齢していくと「加齢に抗う」という言葉の意味が変容する。昔は「時の流れに抵抗すること全般」と思っていたはずだが、ふと気づくと「加齢のスピードをゆるめたり、現状維持をすることは抗うことには入らない」という意識になっている。ほうれい線が目立ったり、シミやシワが目立ったり、肌がたるんでくると、なんとなく、少し手を入れたくもなっていく。でも、年相応の美しさを目指したいとは思ってますので、みたいな。

普通に抗ってません?って話なんだけども。

老けてるけどかっこいい、ってのがいいんだけど、そうなるために具体的には何をしたらいいのかがよくわからない。ただ単純に色々やってみたいという好奇心もありますし、まぁそこまで自分の顔も好きじゃないですし別にどうなっても?みたいな謎のいじけモードに入ったりする。どこに向かいたいんだよお前は。

外見の理想的な加齢のしかたについて考えるとき、最終的にはよくジョージア・オキーフの画像を検索します。そして、こんな風貌になれたらいいなぁなんて、夢みたいなことを考えてぼんやりする。結局精神性が映し出された素敵な顔が好きってだけの話だし、学生のときから考えることが何一つ変わってなくて自分に呆れる。

私の弱点

自分にとって怖いこと、嫌なことは、誰からも必要とされなくなることなんだと思う。
少しその、必要とされていない片鱗が見えた気になると、もう私のことなんて全て忘れ去られてしまうんだとか、もうこの人は私のことを良く思ってくれてないんだとか考えてしまう。そうなると、それならこの世の中から居なくなった方がいいのでは?というところに行き着く。だって居ても何の価値もないじゃん、自分には、と。

そもそも価値があろうとなかろうと、存在していることは別に問題ではない(価値がない人間なんてあり得るのか?って話はちょっと置いておくとして)。けれど価値がないという事実があまりにも怖い。だから回避しようとするし、価値がないと言われた気になると、ああそうだよ、わかってるよと考えていじけてしまう。そういった思考回路が私のなかに確かにある。うまく言えないが、生/死の問題というよりも存在がある/ないの問題という気がする。「居なくなったほうがいい」と思うことはこれまでの人生無数にあったが、「死のう」と思ったことはないような気がする。

そうすると、自分の行為によって何かが成り立っているという状況は、私を生かしてくれていると考えるのが自然であり、毎日わずらわしく感じている息子の食事の準備等も、私が生きるうえではかなり重要な役割を担っているのだというところに思い至る。

明らかに更年期がはじまっている。幸い、いや幸いなどではまったくないけど私は生理にまつわるエトセトラにそれなりに苦しんできた半生があり、更年期の片鱗がふと現れてもその多くに動揺することはそんなにない、いつものアレかって感じの症状が多い。けれど上記のような「居なくなったほうがマシ」「消えたい」というやるせない気持ちは多くの場合そういったホルモンバランスの不均衡と関係して出現するので、少しマネジメントしておきたい。

自分で自分になんとか声をかけてあげることはできないか?そう思ってこれを書いている。あなたはすごいよ、頑張ってるよなんて言うつもりはさらさらないけれど、まだやってないこと、できてないこと、無念なことが沢山あるよね!と言いたい。自分の存在の小ささを嘆いて終わるんじゃなく、そこからどれだけ飛べるか?について考えてみてほしい。

息子に何かを残せているか?
会いたい友人に会えているか?感謝を伝えたか?
母の(そして父の)ためになることをしているか?
今のままの文章力で終わるのか?
なにひとつ成し遂げずに消えるのか?
やれるかどうか、やってみないとわからないのに、やらないまま終わるのか?

私はあなただけれど、あなたではない。私はあなたに満足していないけれど、それはあなたに失望しているという意味ではない。その逆だよ。だから存在しよう。

誰に宛てる話かわからないけれど

ここには、日々私が書き留めておこうと思ったものを、あまり気負わずに残してみようと思う。
これまでの人生、インターネット上に独り言を書き散らかして生きてきた。最初は日記サイト、そこからhtmlを使ったいわゆるホームページ、そしてブログになり、SNSになった。今のフィールドはTwitterとInstagramがメインになっているといえる。ここまでツイッターとインスタが長生きするとは、ユーザーの立場から言うのもなんだが驚きである。インスタに代わるサービスがそろそろ出るだろうなんて思い始めて何年になるかわからない。

しかしSNSで何かを書くことが、年々「発信(拡散)」にダイレクトにつながっていくことに、少し「それでいいのだろうか?」という気持ちが生まれている。インターネットの海に何かを書き記せば、世界の誰かがそこにアクセスする可能性が生まれるということで、書く当人(私)もその可能性に対して、少しだけ甘美な夢のようなものを抱いている。これは間違いない。日記サイトのときから変わっていない。だけれどもこれがわがままなもので、不特定多数の方が読んでくださっているということを意識すると、今度はこれを書くことで誰かを傷つけてしまったらどうしようとか、特にTwitterにおいてはそんなつもりじゃなかったのにという別の人の見解が加わって拡散されるようなことがあったら困るなとか、色々考えてしまい、あんまり色々書けなくなってしまう。

さらに今は、自分のSNSでのふるまいが自分自身だけに影響するものではないという事実もある。お仕事をさせていただいている相手であったり、ディレクターで入らせていただいているブランドであったりによくないイメージが及んでは迷惑がかかってしまう。「こんな人が関わってるブランドなんて、金輪際買いたくありません」。非常によく見る文言であるが、こんなことを言われては困る。

言いたいことも言えないこんな世の中……的な気持ちというわけではないんだけど、昔日記サイトに書いていたようなどうしようもない話(本当に)を書ける場所があるといいなと思った。noteなども考えたがやはりなんとなく拡散への可能性を前提として存在しているサービスをお借りして使うよりは、ここが私のフィールドですというホームページ感覚のような場所があれば、もしかしたらいいのかな?と考えての「ちいさな話」である。

ちいさな話。取り留めのない話。取るに足らない話。そんなところだ。

私はよく文章講座で「その文章を誰に宛てて書くのか意識することがとても大事」と話している。その割に、この「ちいさな話」は(及び、これまでインターネット上で書いてきたものは)、誰に宛てたものなのか、こうしてみるとはっきりしない。自分に宛てているような、いないような。親しい友人に宛てているような、いないような。それでいて、誰かに届くといいなという無責任な期待だって、なんとなくかすかに持っている。

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