言う資格
一般的によくある話だと思いたいのだけど、たとえばダラダラとタブレットとか見てる息子に対して、時間のメリハリを諭すようなことを言う。じゃあ自分はできてるの?と言われるとできていない。みたいなことが、私にはとてもよくある。自分にはできていないことを、息子にアドバイスするなんて、とてもおかしなことのように感じられる。言う資格なんてないじゃないか。
でもそこで「言う資格がないから言わない」を選べるほど諦めの良い人間でもなく、自分にとっての最適解とはなんぞやと思う。やはり「私も自分のことについて努力するから、言うくらいはさせてくれ」という姿勢になるのかもしれない。
また、言った通りにならない未来に対する寛容性も必要になるだろう。言っても言っても治らない未来があったとき、無理に治そうとする自分の姿勢にこそエゴを見出す勇気。そもそも「治す」なんて発想じたいが一方的な価値観の押し付けであることを、渦中にいながら冷静に理解するのはすごく難しい。そんなに難解あるいは高尚な話題ではなくとも、ごくごく些細なことでも(たとえば夕食をどのくらいの時間をかけて食べるのか、であったり)、この命題は頻出する。頭では理解できても、感情のコントロールは簡単ではない。
「言う資格」の話だった。なんでもそうで、SNSでうっかり残念なムーブをかましてしまった芸能人や、想像を絶する態度を見せる政治家まで、私たちはその人たちに対してあれこれ言う。自分はできているのかどうか、できていないなら言う資格はないのか?なんとなくすべてに通じる話だなと思ったりした。
「そんなに文句を言うならあなたが政治家になれば?」というツッコミ、よくあると思うのですが、政治家ではない立場から文句を言ったっていいし、文句だけを言ってクダを巻くだけの領域から飛び出すことは、政治家になることとはイコールではない。階層は多様だ。
当事者意識を持ちながら、違いを認めることが前提にあれば、言う資格はある。そう思う。何も言えない世の中なんて嫌だから。