流行とものづくり
自分がいいと思うものと、世の中の流行がまったく違っているということが、若い頃は多かった。しかしそのことについてまったく気にならなかったなと思う。自分が好きなもの、なりたいもの、知りたいこと、そういったことを探す。それが私には何よりも大事で、それがメジャーだろうがマイナーだろうがどうでもいいからなのだった。
しかしこのように分析できるようになるのはだいぶ後になってからだ。たとえば「マイナーであること(インディーズであること、希少性、みんながいいと思わないことでも自分にはその価値がわかっているという特異性など)」そのものに価値を置くという考え方もある。私はそういう人間ではないのだということが当時はよくわかっておらず、むしろ自分も同じものが好きなのだから同じようなスタンスだろうと思っていたため、いざこういった人と話してみるとなんだか噛み合わない。でもその理由がわからない、といったようなこと。たとえば舞台などを見ていてみんなが笑わない場所で自分が笑うということや、誰も選ばないような課題を自分が選ぶということについて、おかしいともおかしくないとも思えなかったこと。こういった状況の説明が、今ならできる。
誰も私のことをわかってくれない、と思うほど深刻でもない。メジャーにもマイナーにもいけない居心地の悪さというのはずっと感じてきているけれども、自分が自分をわかるほうが重要だから仕方ない。そんな感じだろうか。
時は流れて、私は自分がいいと思うもののムード、骨子のようなものを基本的には掴んでいる。それがメジャーだろうがマイナーだろうがどうでもいいというのは相変わらずだが、骨子を掴んでいてそこに揺らぎがなさそうという安心感があるからこそ、流行というものに無邪気に触れられるようになった、とは言える。
また35歳でフリーランスになり、文章を書いたり商品開発に携わったりするなかで、流行は「マジョリティ」を意味するものというところを超えて、この時代が持つムード、ニーズ、価値観を掴むヒントであり、非常に重要なものであるということがわかるようになった気がする。
何か大きなもの(たとえば流行)があるように感じられたとしても、その内訳は意外と多様であるということも忘れてはいけない。特に、ものづくりにおいては。レッテルを貼ることは怠慢な姿勢、傲慢な姿勢につながりやすい。そういった視点が今持てることに対してありがたく感じるし、その感謝の気持ちもまた、忘れてはいけないと思う。
20代後半、化粧品商品企画の仕事をしていたとき、家にずっとテレビがないという話をしたら、当時の上司に「それはものづくりをする人間としてちょっとまずいんじゃないの?」と言われたことがある。そのときは、この人は一体何を言っているのだろうくらいにしか思っていなかったが、今は上司の言うことがよく理解できる。まあ、相変わらずテレビはないのですが。今は当時のテレビ的存在、スマホになっているので。スマホはあります。